腕組みハスに構えおじさんが「天気の子」見に行って涙流して帰ってきた話。

新海監督作品好きおじさんなのですが、監督作品に最初に触れたのが高校生くらいの頃で、いつの間にか年齢を重ねて妻子持ちおじさんになってしまい、「ボーイミーツガール作品は好きだけど前ほどのテンションで恋愛の勢いにハマれない…でも新海監督作品好きだし見に行くか…」くらいの感じで見に行きました。

「君の名は」は面白かったけどちょっと大衆向けっぽくなって、大ヒットで喜ばしい反面ちょっとモヤモヤした、なんか「好きなバンドがメジャーデビューして寂しいな、なんか昔の尖った作風のが良かったよ…」みたいな言いがちなセリフをブチブチ言いながら腕組んで見始めたわけです。でも、映画見て圧倒され「ありがとう監督…」と泣きながら帰りました。

以下映画の流れと視聴中の心の動きです。

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作品鑑賞でありがちなこととしてメタ的なところ考えつつ観るというのはありますが最初の占い師の発言の下りで驚きました。

「つまり天気の祈りというのは稲荷系の神への祈りであり、新海監督作品だし“晴れ”を願って行くたびにヒロイン消えるんじゃねえの、オイオイいきなりネタバレか!?君の名はのヒット考えるとヒロインも戻ってくるだろうし…。もうおじさん、この先がだいぶ見えたぞこの話…。」と一歩引いて腕組んだ。作品世界から一歩引いて腕組み。その鑑賞スタンス続けるとあまり作品楽しめないぞと分かっていつつも腕組みしてしまう悪癖。

 

第二の驚きが主人公の発砲。『いやいや後先考えなしかよ、大丈夫かこいつ…』
後から考えれば世界よりヒロインを取る彼の決断の伏線でもあるわけですが、とにかく主人公の行動に面食い、腕組みながら引いてた。もう僕はオッサンなので世界よりも彼女をとる!みたいな主人公はそもそももう感情移入しにくいのかもしれない。腕組みして「いやいや」と見てしまう大人になってしまった。映画見る前からわかってたけどちょっと寂しい。ボーイミーツガール作品はもう楽しめないおじさんになったのか…?


主人公にイマイチ感情移入できないまま、監督の描く東京の情景美を楽しんでいたら
ライターのおじさん、須賀圭介にハマり始める。
ムーとか、超常現象怪奇モノ雑誌のライターの仕事はしてるけどオカルト分野全然信じてなくてあくまで「仕事」の割り切り。雑誌名モロだし、ムーに怒られないか大丈夫か。でもこういう感じは好きだな…と。 この辺で話全体として「大人と子ども」の対比が軸として出てきて楽しみ始めました。

(例えば以下2点)

 

・主人公穂高は天気の子陽菜に会って超常現象をガッツリ信じ込み、夏美お姉さんはそういうオカルト世界をどこかであったらいいなと思いながら就職活動する大人と子どもの合間。大人の須賀はオカルト世界はあくまで飯の種、ないこと分かって楽しむエンターテイメント。

・須賀の「大人になると優先順位が固まって動かねえもんなんだ」的なセリフがありましたが大人になると未来の可能性も狭まるし大事なこと以外はある程度距離置いて過ごして行くこと多いですね。
「優先順位の固まった大人」とは反対に穂高の方は彼にとっての一番大事なものが「島ではないどこか」、「東京」、「いや東京より陽菜が大事」と作中で優先順位がどんどん動いて行く。


作中の「大人と子ども」視点で行くともう自分みたいなオッサンは須賀さんサイドなものの見方だなあ、とか思いながら須賀さんに感情移入して視聴続けた訳です。話続けて見ると「須賀さんも元家出少年」「嫁さんは死んでいて、娘は実家預かり」 などバックボーンもチラチラ明かされていって彼のスタンスも分かるな、と思った所で、主人公穂高が警察から追跡される。

 

須賀さんは大人なので「娘を引き取れるかどうかの瀬戸際だし、穂高より娘が大事」と優先順位は動かさず、穂高が警察に追われてると知るとはっきり言って手切れ金渡して追い出しちゃう訳ですが、完全に非情に徹しきれず娘の為にやめてたはずのタバコ吸いながらやけ酒。(娘はどうした、と思いつつも気持ちめちゃわかる…。)

 

そして須賀の事務所に家宅捜査来た警察の「(少年が)必死になってでも会いたい人がいる」という発言聞いて不意に涙が溢れる須賀さん。
ここで僕もウワーと泣きそうになった訳ですが。
須賀にとっての優先順位一番って「亡くなった奥さん」なんでしょうね多分。
須賀にとって優先順位は今も一位のまま動かないけど、亡くなってしまった奥さん。 無理だと分かってももう一度、出来れば会ってみたい。そんな気持ちがずっとくすぶってて娘一筋にも生きれず、気持ちも曖昧な状態で奥さんとの思い出もあった仕事場も離れられずに仕事してたんじゃないかと。
ビル内での穂高と対面時の須賀の「いい加減大人になれ」と自分自身の奥さんへの執着や感傷を振り切りたい、自分に声かけるようなセリフにも見えました。

しかし穂高の必死さ、ひたむきな思いについ感化されてしまう。
須賀ももう会えないけど奥さんへの気持ちはずっと会って「会えるものなら何としてでも会いたい」という気持ちがあったから最後はつい、子どもゆえのひたむきさを持つ穂高を応援するスタンスになっちゃったんでしょう。「大人が寄ってたかって…」みたいな台詞もありましたがそういうことだったのかなと思います。

もうここからは俺も「穂高、お前には最後まで感情移入しきれなかったが、お前のひたむきさを応援するぜ…!!なんかよくわからんけど行ってこい…!!」みたいな感じでボーイミーツガール応援席でひたすら頑張れ!!やっちまえ!!と応援する係になって、どっぷり作品の世界に浸かり、クライマックスもめちゃくちゃ気持ち盛り上げて見ることができました。
ボーイミーツガールの主人公に感情移入仕切れる自分にはもうなれなくても、応援するスタンスでこんなに楽しむことが出来るとは思わなかったしすごいサプライズでした。
多分監督もその辺は理解していて、青春がもうとうに過ぎた人向け応援席みたいなの作ってくれたのだと勝手に思い、ありがとう新海監督…と泣きながら劇場を後にしました。

毎回感傷的な主人公にどこかハマりながら作品見てたけど、天気の子の感傷男は奥さんへの想いを捨てられずにずっと大切に持ってる須賀さん、お前だった…。


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ここからは映画見た後ジワジワ来た感想なんですが、「世界よりも陽菜を選んだ」穂高に対する大人の声のかけかた、いいですね。
彼にとったら世界よりも陽菜を優先したバツの悪さ、罪悪感でいっぱいな訳ですが
おばあさんは「東京も昔は海の中にあり、灌漑と天気具合で平地に変わっていった」みたいなこと言って、東京がなくなったことは悲しいけど地球全体のホメオタシスの範疇みたいな一歩広い視点を話しますし、
須賀も「お前1人で世界が変わったとか大それたこと背負い込まずにいいからさっさと陽菜に会ってこい」と須賀なりの励ましをします。
劇中で穂高が実際やったことは大人の慰めとは異なり事実「世界を変えてしまった」わけですが一歩広い視点を与えたり、許し励ますのも大人の役割としてOKだよな、となんか優しい気分になりました。
(実際穂高個人であそこまでやれたかというと、迎え火の煙や神社のナスやキュウリであったように先祖(死んだ陽菜の母や須賀の妻含む)の霊の助けもあってという事ですしょうし作品としては彼の決断もどこかで許されてるような感じがありました。)
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最後にですが最近ハスに構えがちでボーイミーツガール見るにはもう歳がなー、と言いながらブツクサ見ていた自分の心が洗われたようでいい作品見れました。
ありがとう新海監督…。